ご由緒

ご祭神
  
甲斐相模守親秀入道宗立公 (足手荒神)

甲斐民部大輔親直入道宗運公

共に戦国時代の武将。
戦国時代に名高い名武将達(大友家、龍造寺家、島津家)の草刈り場だった肥後(熊本)において甲斐宗運公が存命のうちは肥後に入らせる事は無かったと言われてます。

ご由緒
今から四百年程前の1587年(天正15年)戦国時代末期、九州を平定した豊臣秀吉の命にて、肥後を治める事となった佐々成政の太閤検地に反発し国衆、民衆が一揆を起こす(肥後国人一揆)。御船城城主の甲斐宗立と隈部親永等は三万五千の国人を率い佐々成政が居城する隈本城を攻める。一揆勢は果敢に隈本城を攻めるも、攻め落とすまであともう少しという所で、豊臣秀吉応援の黒田官兵衛等の大部隊が九州、四国から駆けつけ一揆は失敗に終わってしまう。一揆に失敗し手足に致命的な傷を負いながらも何とか嘉島町上六嘉に逃れた甲斐宗立はその地にて地域住人に手当を受ける。その地域住人の献身的な思いやりに感激した甲斐宗立は「わが亡き後はこのお礼にこの地にて手足の守り神となろう」と言い残し息を引き取った。それ以来、この神社を信仰する者その数を知らず、御利益を受け全快し諸人の寄進による手型、足型、ギプス、コルセット、松葉杖と正に社殿を埋め、遠くは外国、九州一円さては遠県よりの参詣者が後を絶たず、今も尚、足手荒神さんと慕われながら、参拝する諸人の手足を守り続ける。